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SCI ジャパンの活動/歴史

SCI(サービス・シビル・インターナショナル)が初めて日本でワークキャンプを開催したのが1958年。2008年は50年周年の節目の年でした。

また、SCIバングラデシュと共同で『サイクロン災害復興支援プロジェクト』を立ち上げました。これは、2007年11月巨大サイクロン『シドル』がバングラデシュ南部を襲い、大きな被害をだしたため、その復興支援プロジェクトをSCI日本とSCIバングラデシュで共同で立ち上げたものです。

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これまでの主な活動(国内)

[小杉農場]:1995年頃から、山梨県山梨市牧丘町西保下の山間地で農業を営む小杉常男さんが、敷地内の古家などを解放し、不登校の子供たちの、居場所、自由に過ごせる場所、「ほっとけ小屋」を作ろうと、その内装作業などをワークキャンプ参加者と一緒に作り始めたプロジェクトです。これまでに、国内外から延べ100人を超えるボランティアが小杉農場ワークキャンプに参加しました。キャンプ中のプログラムとして、「平和学講座」、その時々のテーマを題材にしたワークショップやリーダーシップトレーニングキャンプを開きました。また、海外からの参加ボランティアと中越地震被災地の救援キャンプも行いました。現在は地域の団体がフリースクールの拠点としてプロジェクトを繋いでいます。これからもSCIとして地域の人たちとの交流を通してプロジェクトに関わり続けてゆきます。

[フリーキッズビレッジ]:2009年から長野県伊那市にあるNPO法人フリーキッズ・ヴィレッジの活動を支援し、そこで国際ワークキャンプや週末ワークキャンプを開催しました。フリーキッズ・ヴィレッジは2004年に不登校の子どもたちとの自給自足の共同生活を営む「寄宿生活塾」として活動を始めた団体です。SCIはフリーキッズ・ヴィレッジ代表の宇津孝子さんの理念と活動に賛同し、夏の2週間、フリーキッズ・ヴィレッジに滞在しながら、子ども達と共に暮らす生活の中で、無農薬農業、地域の草刈り、山から燃料となる薪の調達、子どもキャンプ等を一緒に行いました。現在、フリーキッズ・ヴィレッジは同じ集落の古民家に居を構える複数の自給自足をベースとした家族による「子育て村づくり」の第2世代へと入りました。

※現在、活動メンバーが限られているため、SCIとしてのフリーキッズ・ヴィレッジでの国際ワークキャンプは一旦休止しています。

[東アジアキャンプ]:2010年ごろから、日本支部の提案により、日本・中国(香港)・韓国支部共同で、「日中韓3カ国ワークキャンプ」と名づけ、始まりました(2016年ごろ「東アジアキャンプ」と名称変更)。当時は、文化的な交流(ドラマや音楽)が活発になり始めた一方で、国家間の関係には緊張感がある頃でした。当時の私たちは、お互いにどのような人たちが、どのように暮らしているのかをほとんど知らない状況でした。政治的な緊張が私たちに伝播する前に、ワークキャンプを通した実際的な交流が必要だと感じ、企画されました。本プロジェクトは毎年2月ごろに2週間ほど開催され、三支部持ち回りで実施されました。現在は休止中ですが、香港グループ、韓国支部との交流を続けており、再開を目指しています。

[東日本大震災救援キャンプ]:2011年3月11日に起きた東日本大震災の後、津波の被害が大きかった岩手や宮城の沿岸地域に多くのボランティアが入り救援活動を行っていました。地震、津波、火災、そして原発事故と、四つの被災を受けた福島県いわき市久之浜で、SCIは災害救援ボランティア活動を行いました。特に活動の中心となった久之浜末続地区は、事故が起きた福島第1原発から30km未満のところにあります。もともと限界集落とも言われていましたが、原発事故で末続地区の被ばく線量が未だ高かったために、さらに多くの若い世代が離れてしまいました。震災前から、演歌歌手の岬はな江さんは末続地区で、知的障がいのある子どもたちの社会復帰を支援する場所「岬学園かもめパン工房」を自費で設立していました。その通所施設も被ばく線量が高かったために活動を休止せざるを得なくなりました。被ばく線量が低くなったいま、岬さんは「岬学園かもめパン工房」の再開と、限界集落末続の活性化を夢見て人を呼び込むための地域起こしの準備を始めています。SCIもどの様な関わりができるか情報交換を行っています。

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SCIジャパンの歴史

 日本へは1950年にSCIが紹介され、それ以来多くの青年男女がインド、ヨーロッパ、アフリカへ長期ボランティア(LTV)として渡り、豊富な 経験を持ち帰りました。そして、これらの人々を中心に1950年代後半から日本各地でワークキャンプが開催されるようになっていったのです。記念すべき第1回のワークキャンプは、1958年、伊豆諸島の新島での保育園づくりをするワークキャンプでした。それ以後、2〜3週間のワークキャンプがスラム、開拓村、施設等で数多くおこなわれ、海外から も多くのボランティアが参加しました。

日本のSCIは1964年に国際本部から正式に日本支部として認められ、以来東京に日本支部事務局を置き、国際SCIのネットワークを通し各国支部、グループと協力しながら、それぞれの支部、グループが主催するワークキャンプにボランティアを派遣し、又海外からのボランティアを受け入れています。

◎ 誕生

  SCIは、1920年、第一次世界大戦後のヨーロッパに生まれました。

  長年続いた悪夢のような戦争のため、当時のヨーロッパは何処も廃虚と化していました。我が子を、夫を妻を、そしてなつかしいふるさとの山河を失い、廃虚にぼう然と立ちすくむ人々は「もう二度と戦争をしてはならない」と誓いました。平和のための会議が多く開かれ、議論が繰り返されました。しかし、万言が費やされた後に、こうした試みも次第に時と共に下火になってゆきました。

  そんな中、スイスの名もない技術者で平和主義者だったピエール・セレゾールは、言葉や話し合いの中からは本当に強い建設的な平和は生まれないと深く反省し、平和主義者や良心的徴兵拒否者、反戦主義者と共にSCIを設立しました。その理念は、営利を目的としないプロジェクトを支え、平和を目指した活動を行うというものです。

 ピエールは友人の助けを得て、大戦中に独仏軍が激しい戦闘を行ったために完全な廃虚と化したフランス北部ヴェルダン近郊のエスヌ(Esnes)という小さな村に、各国から呼びかけに応じて集まった人々と共にキャンプを開き、黙々と村の再建作業のために働きました。ドイツ人と見れば黙っていられず、悪口を言い、石を投げつけた村の人々も、深く罪を詫びる気持ちと堅い平和への意志を持って働くドイツの青年を見て、根深い憎悪も次第に消えて行きました。

  SCIを創立したピエール・セレゾールとエレーヌ・モナスティエは、共に働くことのみが、互いの理解を深めるのだという信念を持っていました。それ故、SCIでは、ボランティア達が共に生活し学び働く中で、様々なものの見方やライフスタイル、文化的背景があることを知って相互理解を深める場を提供し、これこそが、やがては平和に至る道であると確信したのです。

  彼らが投じたこのささやかな実験の一石は、心から平和を求めるヨーロッパ各国の人々の間に大きな反響を呼びました。そしてこの時 以来 「Peace not by words but by deeds(言葉より行動によって平和を)」のもとに、この運動の火は第二次世界大戦の戦火にもめげず、世界の平和を愛する人々の心の中に燃え続けてきた のです。米ソ対立の冷戦時代にも政治体制とは関わりなく、いろいろな国で対立を超えた国々の人々が集い、共に汗を流しながら相互理解を通して平和への思いを語り合ってきました。

◎ 1920年−1930年

 

 国粋主義や人種排斥主義に対して激しい反対運動がヨーロツパ、特にドイツ、イギリス、スカンジナビア諸国に拡がりました。その時代にあっても、最初に作られたSCIの規約に、“倫理的に国家間の戦争を不可能にするような新しい精神を人々を分かつ国境を越えて拡げていかなければならない”とあります。

 1930年までは、ほとんどのワークキャンプは、戦争や自然災害で被害を受けた人々を援助する活動でした。

 1924年には、二度にわたって大きな自然災害を受けたスイスの村の再建のためにワークキャンプが行われました。1928年には、同じようなプロジェクトが、洪水被害を受けたリヒテンシュタインで行われ、20カ国から700人のボランティアが参加し、その期間は8ヶ月にわたりました。

 1930年には、ワークキャンプに新しい視点が加わりました。イギリスの失業鉱山労働者達の指導の下に、ボランティア達は、鉱山の村に公共のスイミングプールを建設しました。これは、社会構造的暴力と戦うという意図を持ち、ワークキャンプ活動の新しい展開となるものでした。

 

◎ 1934年−1939年

 

 ヨーロッパで国粋主義、再軍備、人種的憎悪を煽り立てる運動が拡大していく中で、平和運動は急速に衰えていきました。この困難な時期、ごく僅かな組織のみが活動を続けていました。その中には、イギリス、スウェーデン、スイスのSCI支部がありました。ピエール・セレゾールと共に数人のボランティアが、インド、ビハール州にSCIのプロジェクトを組織し、1934年〜1937年まで活動を続け、地域の住民と協力して大洪水の被害を受けた村の再建をしました。インドとヨーロッパのボランティアが手を携え、共同プロジェクトを組織したのは、これが最初でした。

 1936年7月、スペイン市民戦争が勃発しました。この戦争による被害は甚大なものでした。複数のスイスの機関が難民委員会を組織し、食料や援助物資が集められました。短い期間ではありましたが、SCIもバレンシアとマドリードを結ぶ輸送作業、疎開児童のために食料輸送をしました。共和主義者側の支持を得て、妊婦のための食事サービス、衣類の無料配布センターを設置し活動しました。フランコ将軍側の勝利、共和主義者側の敗北をもって、スペインにおけるSCIの活動も終わりを告げました。1939年9月、第二次世界大戦が始まると共に、SCIは活動の停止を余儀なくされました。)

 

◎ 1940年−1945年

 

 イギリスで、SCIイギリス支部が、爆撃を受けたロンドン市の再建のため、良心的徴兵拒否者を集めました。

 

◎ 1945年以降

 

 第2次世界大戦後、各地域で数百に上る再建プロジェクトが立ち上げられましたが、その多くはSCI支部のない国々でした。この頃、「国際ボランティア活動」の考え方が定着し始め、1945年パリで、「国際ボランティア活動調整委員会(Coordinating Committee for International Voluntary Service, CCIVS)」が、クェーカー(キリスト教プロテスタントの一派)団体、SCIおよび幾つかの組織の参加によって設置されました。CCIVSは、ユネスコのメンバー機関となっており、今日では200を超える団体から構成されています。

 

 1940年代後半、SCI運動はヨーロッパを越えて、まずアルジェリア、チュニジア、モロッコと拡がり、その後インド、パキスタン、スリランカ、ネパール、日本、さらにその後、アフリカ地域(西部)、そして南アフリカまで拡がりました。

 

 1950年代以降、力を入れたことの1つが、中欧および東欧諸国との青年交流プログラムを創出することでした。当時のプログラムの目的は2つありました。1つ目は、冷戦時代における西側と東側双方にある偏見を払拭すること、2つ目は、冷戦下の社会的・政治的影響を受けた若者が国を超えて出会い、相互理解を促進していくことでした。

 

 今ではSCIは、ヨーロッパ、北アメリカ、アジア、オセアニアの36ケ国に、非営利の平和主義ボランティア組織として存在しています。さらにSCIは、世界で40以上のパートナー団体と連携し、活動を行うとともに、それらの政治的・社会的立場が安定するよう支援しています。

 

 各国支部は、SCIの規約に基づきながらも、独立した活動をしています。したがって、各支部のプログラムには支部の個性があり、その国の抱えている経済的、社会的構造や政治的問題も反映されています。